佐藤多持 作「水芭蕉曼陀羅」によせて
このたび、旧知の佐藤多持さんの「水芭蕉曼陀羅」襖絵36面が完成し、その生家である観音寺の客殿に奉納設置されたことは、作者の仕事の意味を知るものにとって何よりも嬉しいところである。この心をこめた壮大な快作は、内容、形式のあらゆる面で今日の絵画表現にさまざまな示唆をあたえるだけでなく、古くて新しい芸術の至純な役割りを、すなおに、また力づよく果たそうとしている点で注目されるであろう。
いったい、曼陀羅とは輪廻具足また聚集のことを示し、つまり一つの体系を意味し、これを具体的に示すところの壇のようなものを指すともいわれるが、要するに古来の名高い仏画が示しているように密教とは大いに縁の深いものであった。真言宗の家に生まれ性来仏心の厚い作者が、曼陀羅の発想で美の本質を求め、そこに切実な体験にもとずく水芭蕉のイメージを重ね合わせて、独創的なシリーズを展開したことは、内面的必然性のきわめて高いものといわなければならない。
聞くところによると、すべてが戦後の荒廃の中にあった昭和23年、作者は友人にさそわれて当時まだ行く人も稀れだった尾瀬沼を訪れたという。そうして、仲春ごろの朝の光のなかで水芭蕉の神秘な美しさに打たれたのだった。以来、これに魅せられた佐藤さんは、汚れのないこの花の清浄感、ふくよかな生命感、あの神秘感を追い求めて、30年のあいだ倦むところがなかった。別名を仏の光背ともいわれる水芭蕉が、そのまま仏教の真髄の象徴となり、またずばり美の本体と化し、また、作者の芸術心の汲めども尽きぬ源泉となって、今日もなお作動しつづけているのは印象的である。
しかし、作者の「水芭蕉曼陀羅」のいっそう貴重な眼目は、以上のような背景に立ちながらも、さらに画家としての澄明で強靭な工夫、修練が積み重ねられている点である。
絵画の表現は、つきつめれば、無形の高い内容を画面のなかにどう設定すればよいか、ということである。そこには、点、直線曲線といった基本的な要素があり、またその組み立てと動勢があり、さらには色彩や濃淡、空間の深さなどが、これと関連してくる。それらの諸要素をひきくるめて純化し、抽象化していく精練作業が何よりもだいじな課題となるわけである。
作者が知求会という純真な研究グループを結成し、年々成果の発表を始めてからもう20余年になるが、この間のたゆみない精進のひたむきさには誰しも敬意を表さずにはいられないだろう。毎年の会にあきることなく水芭蕉の連作を公表し、一回たりとも休まなかった佐藤さんの仕事が、気がついてみると驚くほどの境地に達していた事実は、当然といえば当然である。年毎に表現は厚みを増し、滋味を加え、いよいよ純化されながら爽やかな自由を切りひらいてゆく。こうした着実な努力の上に、しだいに格幅の大きい至純の芸境が熟してきたのである。気持ちの通った澄んだ墨色、迷いのない筆線の伸び、これほど小気味よい形と線の実現は、よほどの修練がなくては叶うものではない。こうした精魂こもる堅確明快の作風は、ひとえに大らかな作者の心技の充実によると見るべきであろう。
今回完成した観音寺客殿の襖絵36面は、左のような経過の中で数年がかりでまとまったものだけに、作者の仕事の意義を十分に味わせ手くれる記念的な代表作となっている。それはいわゆる仏画ではないが、まさに高い意味のユニイクな仏画である。また一見抽象画ともみえるが、そこにはつよく美しい水芭蕉のリアリティが裏づいている。さらに日本画であり墨絵でありながら、それらの通念を越える高邁な表現となっているところが見どころであろう。このような注目すべき健康で異色の芸術が、ここに見事に成就したことを、皆さんと共に喜ばずにはいられない。 |