観音寺のご本尊:聖観世音菩薩

室町時代 (1392年~1573年)の作と伝えられています。

あらゆる観音の中の根本的観音と言われているのが聖観世音菩薩です。

心の中から念ずれば、様々な願いをかなえてくれる。観世音菩薩、観自在菩薩ともいわれ、代表的な仏典の観音経にもその真髄について語られており、よく知られた般若心経においても観自在菩薩として真理を説いています。

物事の総てを観通して、自由自在に衆生を救うという意味を持ちます。

古来より霊験あらたか仏像として厚い信仰の対象となっています。

観音寺の起源:鎌倉後期(1185年~1333年)と伝えられています。

北条氏滝山城(現八王子校外、滝山城址)の鬼門(東北方)を護る寺として現武蔵村山市の地に創建されました。
創建の地にはまだ「観音寺」の地名が残されていますが、江戸中期新田開発に伴い現在の地に移築されました。享保年間(1716年~1736年)、およそ290年前であると伝えられています。
 当時、新田開発は収入増加の目的で幕府、諸藩に奨励され、ここ武蔵野の地でも行われていました。
中興開山は法印亮瑞和尚、九州肥後国球麻郡西氏の出であるといわれています。当時、観音寺の住職についた人物は、必ず本寺の住職にもなっていた事から出世寺としても名を馳せていました。明治以降はその慣例がなくなっています。

現在は、多摩88か所の27番札所として、年間を通じて参拝する人も多い寺院です。

観音寺の仏像:薬師如来

以前は境内に薬師堂が有りましたが、お堂が台風により消失してしまい、現在は本堂内に奉られています。
薬師如来の病気平癒は霊験あらたかで昔は毎月の縁日が境内の出店で賑わうほどの信仰を集めていました。 佛教はその伝播とともに教育や哲学や天文学、土木技術のほか医学の進歩にも大きな足跡を残し、僧侶によって薬草や医療が広く普及されてきました。

薬師如来のまたの名はを医王如来です、医薬兼備の仏様で、右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例で応病与薬[おうびょうよやく]の法薬 で、苦を抜き楽を与えて下さる抜苦与楽[ばっくよらく]の仏様です。
薬師如来の真言。
小咒 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
中咒(台密) オン ビセイゼイ ビセイゼイ ビセイジャサンボリギャテイ ソワカ
大咒 ノウモ バギャバテイ バイセイジャ クロ ベイルリヤ ハラバ アラジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニヤタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ バイセイジャサンボリギャテイ ソワカ

観音寺の仏像:釈迦如来

仏教の開祖として皆さんもご存知のとおり仏陀の化身としての仏像です、衆生を救済する霊験があらたかです。
 お釈迦さまは、二千五百年ほど昔、紀元全四六二年と伝えられますが、インドのヒマラヤのふもと小部族、釈迦族ゴータマ家の王子として生まれました。
 お釈迦さまを釈尊ともいいますが、「釈迦族の尊者」を意味するシャーキャムニを日本語に訳したことばです。釈迦牟尼と音訳されます。お釈迦さまのよび名としてもっとも一般的なのは「ブッタ(仏陀)で、広く世界でもそうよばれています。
  仏陀とは、「目覚めた人」、「自覚した人」という意味で、当時のインドでは、お釈迦さまだけをさすものではありませんでした。そこで、お釈迦さまは、その姓をつけて「ゴータマ・ブッタ」とも呼ばれました。
  お釈迦さまの生まれた釈迦族は、カピラヴィットゥを首都とする小部族でした。カピラヴィットゥは、現在のネパールのタラーイ地方に位置していたと推定されています。
 お釈迦さま、この釈迦族の王スッドーダナ(浄飯王)を父とし、マーヤー(摩耶を母として生まれました。
  仏伝(釈迦さまの伝記)によれば、マーヤー夫人が実家であるコーリヤ国へ出産のために向かわれる途中、ルンビニーの園で休息をとられ、美しい純白の無憂華(マメ科の常緑樹の花)をながめて楽しんでおられたとき、突然、誕生されたといいます。

観音寺の仏像:大日如来

大宇宙すべての現象の根源となる仏であり、「法身仏」とも呼ばれています。 真言宗をはじめ密教世界で本尊とされ、教義の中心に位置するのが大日如来です。   「光り輝き、あまねく照らす偉大な仏」という意味があります。 漢訳では「大毘盧遮那仏」とも言います。  高野山や比叡山など、密教の聖地では大日如来がまつられています。 大日如来は宇宙の真理や根源を意味する仏で、この世も森羅万象、すべての自然や生命が大日如来の現われであると考えられています。また、仏教の各宗派で語られる仏・如来、菩薩などはすべてその化身とされています。   密教以外の宗派では、過去世において善業を積み、その報いで仏となった阿弥陀如来のような「報身仏」、あるいは衆生を救済するために生まれた釈迦如来のような「応身仏」を本尊としています。これらはすべて、特定の仏による具体的な考えであることから顕教と呼びます。   一方、密教では本尊となる大日如来そのものを、「法身仏」と呼びます。 「法身」とは宇宙の真理や法則を体現するものという意味です。したがって大日如来はすべての仏・如来の根源であり、大日如来が象徴する仏法(秘密の法)を直接学ぶことが密教の信仰に中心になります。   密教の世界では、大日如来は二つの働きを持ち、第一は「理の法身」と呼ばれます。「理」 は現象世界の背後にある法則であり、究極の真理です。森羅万象はこの理の法身から誕生することから、理の法身を宇宙の子宮と考え、大日如来の世界のことを「大悲胎蔵」(大いなる慈悲を宿した世界)と呼びます。 真言宗を開いたり空海によれば、究極の真理から現象世界に流れ出てくるのが、第二の「智の法身」です。この智の法身を手がかりとして、宇宙の真理を深く認識し、密教の深い智慧を実践することによって大日如来の世界と融合することが、真言宗における修行の眼目となります。これを「即身成仏」といいます。

観音寺の鐘楼:八王子の鋳物師の作であるといわれています。

東京都指定保存梵鐘、大戦の折りの供出を免れ健在。 宥性和尚の代に作られました。奉納者名が彫り込まれています。
梵鐘の「梵」とは梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものです。 作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれます。
  和鐘の場合、鐘身は上帯・中帯・下帯と称される3本の横帯で水平方向に区切られるとともに、垂直方向にも縦帯と称される帯で区切られます。 縦帯は通常4本で、鐘身を縦に4分割する(近世の鐘には5本の縦帯をもつものもある)。  
上帯と中帯の間の空間は、上部を「乳の間」(ちのま)、下部を「池の間」と称する。「乳の間」には「乳」と称する突起状の装飾を並べる。「池の間」は無文の場合もあるが、ここに銘文を鋳出(または刻出)したり、天人像、仏像などの具象的な図柄を表す場合もある。   中帯と下帯との間のスペースは「草の間」と呼ばれる。鐘身の撞木が当たる位置には通常2箇所の撞座(つきざ)が対称的位置に設けられる(まれに4箇所に撞座を設ける例もある)。 撞座の装飾は蓮華文とするのが原則である。(出典:wiki他)

観音寺の文化財:国分寺市指定文化財

国分寺市内に2基のみの貴重な史跡です。 多摩地方の新田開発に貢献した代官川崎平右衛門と、初代亮瑞和尚の遺徳を忍んで、寛政7年(1795年)中興第二代宥性和尚の時代に建立されたものです。高さ3.6m 川崎平右衛門の立派なブロンズ像が府中市郷土の森博物館にあります。
川崎平右衛門略歴
 1694年(元禄7年)、現在の府中市押立町で名主の子として誕生した。  1716年(享保元年)、八代将軍・徳川吉宗によって「享保の改革」が始まり、この年、平右衛門は 栗の実を将軍吉宗に献上した。 平右衛門は、府中市の原野を開墾して栗林を作ったり、 押立に竹林を栽培し、水害防備林として機能させることにより、多摩川水防の強化を図った。  享保7(1722)年、82ヶ村に新田をつくり、石高11万2千石の増収を図る武蔵野台地の開発が始まった。   1740年(元文三年)、一連の功績により大岡越前守から農民扶助の功により名字帯刀を許され、 さらに武蔵野新田開発の世話役を命じられた。北(現・鶴ヶ島市)と南(現・小金井市)の2か所に陣屋を 設け、新田開発の拠点とした。北の陣屋跡は残されているが、小金井公園近くにある南の陣屋跡は、 残念ながら無くなってしまった。また職務怠慢などの理由で水元役を解任された玉川兄弟に代わり、 玉川上水の維持管理にも深く携わった。  21年間で約500町歩に渡る新田を開発した平右衛門は、その功績により 1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。   1745年(延享2年)多摩での実績が認められて、正規の代官として美濃国本巣郡へ支配がえとなり、四万石を支配した。 ここは輪中堤防を廻らした洪水地帯で、治水工事に功績を残した。  平右衛門は1762年(宝暦12年)、石見銀山の石見国大森代官を任じられた。   1767年(明和4年)、勘定吟味役兼諸国銀山奉行となった。同年6月、73歳で没した。 (略歴情報:小金井info他より抜粋)
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観音寺の石仏:地蔵菩薩。

江戸時代弘化年間(1844年~1848年)に建立された石仏。 地蔵堂に安置されています。衆生救済、現世利益を目的とする菩薩です。 地蔵信仰について  地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)は菩薩の一尊で梵名クシティ・ガルバ。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言います。また持地、妙憧、無辺心とも訳されます。 三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種子(種字)はカ (ha)。   真言は「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」。 一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられているのを見かけます。  賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めました。 また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られています。

観音寺の石仏:六地蔵菩薩(江戸期)

江戸時代に建立された石仏。

 

廃仏毀釈の傷跡が痛々しいですが、奉納者の名と、時代が刻まれ貴重な歴史の証人となっています。

台座などを含めて痛んだ部分は信仰心の厚い寄進者によって修復されています。

山門のすぐ外側、本堂に向かって右側に祀られています。

 

真向かいには下記の昭和の六地蔵尊が並んでいます。

観音寺の石仏:六地蔵菩薩(昭和期)

昭和41年3月24日に奉納された地蔵尊です。 上記の六地蔵尊に正面に祀られ、山門の階段を上りきると左側に鎮座しています。


「お地蔵様」という呼び名で親しまれる地蔵菩薩は民間の身代わり信仰や数々の民話や童話に登場し、身近な生活の傍らでいつも守ってくれている安心感を与えてもくれます。

六地蔵の六の意味するところは、仏法「六道」の「地獄」「飢餓」「畜生」「修羅」「人」「天」の6つのシーンが連なる輪廻転生のことです。 輪廻転生の全ての道ににおいて衆生を救うという菩薩が六地蔵です。

観音寺の石仏:延命地蔵尊(三仏)+馬頭観音菩薩(江戸期)

平成7年7月に檀信徒によって、修復再建、建立された石仏です。 墓地の入り口を入ってすぐ左側に並んで祀られています。

馬頭観音(左端の石像)は江戸時代文化年間(1804年~1818年)8年に建立されました。 馬の守護本尊として広く信仰されています。

観音寺の石仏:馬頭観音菩薩(昭和期)

昭和56年7月寄進されました。 昔から馬の守護本尊として広く信仰されています。
人類の生活の中において古今東西を問わず、馬は運搬にも農業にも、そして軍事にも欠かすことができない使役家畜でした。
ペットブームの昨今においては諸動物の守護本尊としても人気があり、馬だけではなく様々な動物の守護本尊として、いきとしいける命を守り苦痛からも解放してくれています。

観音寺の石仏:寶性地蔵尊

無縁諸精霊、或いは継承者のいない精霊の菩提を弔う為の仏様です。

平成に永代供養塔の正面に建立されました。
『観音寺永代供養塔』の正面に建立され、宗旨・宗派・国籍などを問わず、どなたでもお供養しております。

お盆、お彼岸、お施餓鬼など季節ごとの行事にも欠かさず供養をいたしております。

観音寺の石仏:無縁仏

無縁諸精霊、或いは継承者のいない精霊の菩提を弔う為の仏様です。
昭和時代に奉納されました、功徳主の方のお名前が記された銘板がございます。

ご子孫が途絶えてしまった方や海外などに永住されてご先祖の供養ができなくなってしまった方々の魂を、観音寺が責任を持って供養しております。
お盆、お彼岸など季節ごとの行事にも欠かさず供養をいたしております。

季節を問わず、直接縁がないにもかかわらず花を捧げてくださる方や、手を合わせ香を焚いて供養してくださる方々、清掃をしてくださる方もおり、多くの皆様に愛されている仏様でもあります。

観音寺の石仏:寶壽観音菩薩

平成20年7月寄進された一番新しい観音菩薩像です。

観音寺境内入り口、白鳳閣齋殿の向かいに建立されて訪れる方皆さまをお出迎えし、信仰する衆生の願いを叶える霊験を現しています。

観音様が手に持つ珠は如意寶珠(にょいほうじゅ)と呼ばれ、仏教において霊験を表すとされる宝の珠のこと。
サンスクリット語で「思考=チンター」と「珠=マニ」を指し原語は「チンター・マニ」と言います。
「意のままに願いをかなえる宝」と解釈され、衆生の願いを叶える宝の珠です。

観音寺の山門:弁柄塗りの赤門

扉と骨組みは、鎌倉時代の作と伝えられています。 八王子の滝山城にあったものを移築したといわれる由来があります。
滝山城メモ:滝山城は、大永元年(1521年)に大石定重が築城したと伝えられています。 規模の大きさや保存状態の良さでは日本でも有数の城跡として知られ、国の史跡に指定(1951年(昭和26年)6月9日指定)されています。 春には、5,000本のサクラが咲く名所として有名です。
多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったといわれています。 現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っており、大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり桜の名所です。
東京都公園協会の滝山城の公式ページご案内 クリック クリックして表示してください。

観音寺の慰霊碑:戦没者の魂を慰霊しています

昭和33年9月12日戦没者を悼み、後世に伝える碑として檀信徒の手によって建立されました。

 明治以降の一時期、激動の時代の世相を反映して境内が荒れていた時代もある観音寺の近世の再興に尽力し、檀信徒からの信頼も厚かった15世芳信和上と檀信徒の方々の力によって、無念のうちに散った戦没者の魂の鎮魂と平和を願う気持ちを求めて建立されました。

本堂に向かって左側の境内に建ち、終戦記念日によらず親族を戦災によって亡くされた方々の親族や関係者の方々が年間を通じてお参りし、献花する姿が見られます。
観音寺においても季節の行事の折に触れ必ず丁寧な供養を行っており、末永く平和な世が続くことを願っております。

除夜の鐘:写真ギャラリー(写真をクリックするとギャラリーのページで大きくご覧いただけます。)